おとずれ「導かれて」

教会報おとずれ66号より
「導かれて」tomiko.H

今から15年ほど前、近くにお店を出し、私の弟と保育園が一緒だった方が遊びにみえました。主人の母がちょうど長野に遊びに来ていて、彼女に「この近くに教会はありませんか」と尋ねたところ、彼女が子供の頃に通っていたという長野県町教会を教えてくださいました。義母はたいへん喜んで、早速日曜礼拝に四人で出席したのが最初でした。
長野は善光寺のお膝元。牛に引かれて善光寺参りの話があるが、私共は「義母に引かれて長野県町教会」です。

私は2005年に受洗。義母がたいへん喜んでくれました。その義母が2012年に召天。5か月後に主人が、そしてまた5か月後に私の母が、その4か月後に主人の叔父が・・・頼りにしていた人が皆、天に召されました。
悲しんでいる暇もなく月日が流れ、義母の献体には三年がかかり、2015年にようやく葬儀。2016年にやっと主人も教会墓地に納めることができました。その時の牧師のお言葉「気の済むまで、そばに置いて大丈夫ですよ」に、とても心が安らぎました。

あっという間の5年間。このところ急に寂しさが増す中、教会創立125周年の記念コンサートが開かれました。森 祐理さんのコンサートには雨の中多くの方が来場しました。皆が後ろの席を埋めていたので、私は前の席に、それも一番前に座りました。
オープニング。白いドレスを着て、小顔の細い森さんが阪神大震災で弟さんを失ったお話を優しく語りかけ、握手をし肩に触れて・・・自分のことと重ね合わせて、涙がとめどなく溢れてきました。周りからもすすり泣きが聞こえてきました。終始大きな拍手と声援を送っておられたファンの方もおられました。会場が一体となり、癒しと希望に満ちた素晴らしいコンサートでした。

義母が私のために作ってくれた聖句のカードがたくさんあるのですが、コンサートの後、その中のひとつが心に響いています。

「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。
 わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。」
詩編119:71