文学の中の信仰1

文学の中の信仰1 Kazuko.A

「蜜 柑」芥川龍之介

高校三年の冬、国語の教師がこの短編を朗読した。
陽光が恋しい季節、二階の窓際の席で自分の将来に不安を覚えながら外に目をやり聞いていた。

これから奉公先に赴こうとしている小娘が霜焼けの手に三等のきっぷを握りながら、二等車に乗ってくる。疲労と倦怠感に苛まれている主人公は小娘が気に入らない。トンネルを過ぎたあたりで、小娘はあたたかな日の色に染まった蜜柑を5、6個勢いよく窓から放り投げる。町はずれの踏切まで見送りに来ていた弟三人の上に空から降ったように落ちていく。

芥川の作品の一割はキリシタンものと言われている。しかし、キリスト教は西洋理解のためと距離を置いていたそうだ。「ぼんやりとした不安」に苛まれていた芥川は35歳で死を選ぶ。大切にしていたマリア観音の像が残された。

私の実家のある大分県竹田市はトンネルだらけの町だ。竹田教会は隠れキリシタンの里にある。高校一年の時、死への恐怖から門を叩いた。
「わたしは道であり、真理であり、命である。」ヨハネによる福音書14:6
この聖句は若い胸に火をともし、以来何度トンネルをくぐっても消えることはない。
この時の牧師は10年後、わたしが洗礼を受けたことを知らない。50年以上前のことなのに、教室に座っている自分と、空を舞う蜜柑の場面は忘れられない。