週報コラム「キリストと呼ばれるメシア」

キリストと呼ばれるメシア   今井裕子

ユダヤ人たちが待ち望んでいた救い主は「ダビデの子」という称号を冠したメシアでした。預言者サムエルが油注いだ王ダビデ。油を注ぐという行為は、神の選びを意味します。力でのし上がった王でなく、人々が担ぎ上げた王でもなく、神が立てられた王のしるしです。「油注がれた者(メシア)」には主の霊が激しく降り、特別な務めを果たします。時代の強国に支配される神の民イスラエルは、かつての偉大な王ダビデのようなメシアが勝利と解放をもたらしてくれる日を待ち望んでいました。

しかし、待ち望んでいたその方が来られた時、人々は理解しませんでした。主イエスが来られて、ヨハネの洗礼を受けられると、天から神の霊が降り、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえました。神御自身が霊を注がれたこの御子が「救い」です。メシアにかけられていた勝利と解放は、ユダヤ人が思い描いていたのとは全く違うかたちで成就します。御子は十字架の死と復活によって罪に勝利し、命へと解放してくださいました。ヘブライ語のメシアはギリシャ語ではキリストです。主イエスによって神の救いが明らかにされました。この方がキリストです。

願っていた救い主メシアと、明らかになった救い主キリスト。わたしたちもまた、それぞれに理想のメシアを思い描いています。しかし救いは、わたしたちの願いを超えてキリストによって成し遂げられました。十字架によって成し遂げられました。

女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」(ヨハネ4:25-26)